2013年5月10日金曜日

30代を考える。


今年は30歳になる歳なんですね。 次の10年で、40歳になる。  
20歳から30歳になるのとは、また一段違う10年ですよね。 
だって、両親が40歳のときには、僕はもう生まれていたわけです。 
けっしてもう若くはない年齢だと実感します。  

それで最近なにをすべきかスゴく考えることがあります。 
もうあらゆることで、なにをするか考えちゃいます。  
日々の食事にしても、仕事にしても、ライブ行くにしても、本読むにしても、 
映画見るにしても、時間に限りがあるとわかったら、 自分にとって最高の
選択をしていきたい。  

けど、実際は自分の見聞きしている情報なんて限りがあるわけで、 
完璧な判断ができるわけない。  

だとすれば、なぜその選択をしたのかと考えると、 
まさに「そこに山があったから」としか言いようがない。  

だとすれば、せめてたくさんの山を目の当たりにしておくべきでは!? 
目の前にないことに対しては、決して選択はできないわけですから。  

そういう意味で、自分がたくさんのものを目で見るためには、 体力とか健康とかは、
なくてはならないものなんですね。 だから、そういう仕事でまずは
食べていきたいとも思っている。 精神、体力ともに健康でいられる仕事。
その点で、いまの米作りは すごくいい方向でさせてもらっていると実感しています。  

小さいときに目の当たりにした桶川西小学校のアルプス(小高い丘)を登って、
 山を登った気になることは、決して不幸なことではないけども、いまは 
もっともっと別の山を探したいと思うんですね。  

でも、もしかしたら40歳になるころには、この山が一番いいと 
思えるものが出て来るのだろうか。

2013年4月13日土曜日

養老先生の話を聞いてきた。

4月12日(金)


養老先生のお話し。

テーマは「生きる力」でした。

大きく二つのことについて、養老先生は話していたように思う。

まず一つ目は、私たちを取り巻く環境の話。
二つ目は、テーマである生きる力、私たち自身についての話。

 私たちを取り巻く環境。 エネルギーと経済のお話し。
エネルギーの消費が増えると経済成長率が増えるという事実がある。
エネルギーというのは、石油のこと。現代社会においては 経済成長を
目指すことが大きな流れであるから、必然的にエネルギーを必要とすることになる。

一方でエネルギーは私たちの身体にも存在している。基礎代謝と言って、
日々私たちはエネルギーを蓄えて消費している。 しかし、外部からの
エネルギーによって、自分の基礎代謝がどんどん落ちている。
外部からのエネルギーというのは、たとえばクルマによる移動。
どんどんエネルギーが内部からではなく、外部から得られることによって、
人間が動かなくなる。それで肥満が増えたり、病気が増えるという必然。
そういう社会に生きている事実を説明してくれた。

次に、生きるとは何だろうという話。

その逆の死ぬということから話は始まった。

死ぬと困るのは誰だろう。実は自分は死んでも困らない笑
死んだらそれまで。自分はもう関係ないわけだから、死んで困るのは、
自分の身近な人である。  ということは、生きると言うことも身近な人との
関係性のなかでしか、 あり得ないのではないのだろうか。という話。

一人ぼっちでいたとして、生きることはできても、じゃあ生きる力が
みなぎってくるだろうか。よく、奥さんを早くに亡くした男性が
後を追うようにして亡くなるケースがあるけども、これもやはり、
身近な奥さんがいなくなったことで、生きる力を失うのであろうことは、
想像すればイメージ出来る。

生きる力に満ちあふれた生き方とはどんなものだろうか。 身近な人との関係が、
強くある生活。すなわちいま流行の”絆”のある 社会であろう。  いまは人間関係が
希薄な社会と言われているわけだから、当然、 生きる力は弱くなっている
ということだった。

じゃあ問題は、なぜそんな希薄な人間関係の社会になっているのか。
個性、独創的、他のヒトにできないこと。こんなキーワードが社会に出て行く前の
学生達に求められる条件として、提示される。執拗に自分というものを、
意識して周りと区別する傾向。  しかし、養老先生はこんな例をあげた。
精神に障害をもった方を相手にする現場にかつていた先生は、まさに彼らこそが、
個性をもって独創的で他の人にできないことをしていると笑
しかし、彼らは社会に出て行けないから病院に通っているわけで、 つまり、
社会においては相手に役に立つからこそ自分のいる価値が出てくるということなので、
いたずらに個性や独創性をもてはやすのは おかしいというわけだ。
個性は生まれつきあるでしょう。顔や血液型。 それが個性だろうと。

さらにこう付け加える。  自分と周りの環境を区別することはできない。
それくらい、実は私たちは環境と繋がっている。  例えば目の前の田んぼの稲を見て、
私たちの未来を見る。 なぜなら、お米を食べて私たちは身体を作っている。
稲穂が成長してお米になるということは、自分の身体を作る基となる食べ物が、
できる、すなわちそれは自分自身でもあるということなのだ。

さらに、自分たちの細胞のことも例にあげた。 細胞は毎日少しずつ入れ替わっている。
赤ちゃんのころ私たちを形作っていた 細胞は、いまは一つも残っていないそうだ。
だから、いまの私たちは、 生まれた頃とは丸っきり別物になっている。
細胞は外にどんどん腐敗して、 剥がれ落ちているわけだから、それこそ環境との
境界線はつねに危うい。

自分=環境ということをこうやって丁寧に説明して、いかに社会と繋がるのかが
自分に関係しているかを説明してくれた。

そして最後にまとめ。  自分と環境の境界線がなくなって繋がる。
”つながる”ということがこれからの学問におけるテーマだと。
日本人のベースにある仏教は、そういう意味では”つながる”ことが
根底にあると言うことだった。だから、日本人の感覚がこれからは 大切になるとか。

この最後の10分で自分の集中がとぎれた、プラス養老先生が急いでまとめたので、
結論がよくわからなかった。しかし、ここまでわかっていれば、
きっと考えれば分かると思うので、まあよしとしよう!  ああ、長くてすいません。

おもしろかった!

がん!がん!がん!

2013年4月3日水曜日

中学生は身の程を知らないが、実際には知る必要があるのかどうか。

4月2日(火)

並行して更新している農場ブログのほうも
滞り気味なのに、こちらはもっと滞ってしまった。

農作業が春になって忙しくなり、目の前のことで精一杯。

この一ヶ月で、受験は終わり、所属していた塾も閉校した。

懸念されていた生徒も、無事合格して、
少し肩の荷が下りたようでもあります。

受験が終わって一段落したら、塾の閉校ということで、
バタバタとお別れのご挨拶。

そして3月をもって塾の仕事も一旦お休みということになった。

いま、思い返してみても、塾での中学生との対話は、
とっても気づきの多い仕事だったように思う。

勉強を教えるという定められたミッションではあるけども、
非常に不安定要素の多い中学生相手にすると、かなり高度な仕事になる。

コミュニケーションをとるでも、大人と違って一筋縄にはいかない。
ときには、先方が興味関心のあるトピックを少し下調べしてみたり、
機嫌の悪そうなときは、テンションが上がるように、話をもっていったり、
さながら付き人、アシスタント、マネージャーのような資質が
必要とされるのではないか?と感じた。

一人相手でもこんなわけなので、それが人数が増えればより難しい。

こんな刺激的な仕事内容もさることながら、まだまだ未来には
大きな大きな可能性を秘めている中学生の考えていることに、
触れることは、さらにしびれる体験だった。

身の程を知る。

これが、大人になる上でどうしても通らなくてはならない壁。

中学生は、身の程を知らない。
まったく勉強をしないくせに、末は防衛大学を目指すと言い放つ。

ああ、もうこんな向こう見ずな目標も立てられないのかと、
自分を振り返るのだけども、、、まだまだ!

中学生のことを、僕が、まだまだ知らないんだなと感じるように、

世間から見れば、僕もまだまだ何も知らない人間である。

いまの自分には想像もできないような、大きな目標を掲げることもできるのだ。
そういう勇気をもらえる。

中学生は、お金も知識もないが、膨大な時間がある。
僕には、お金はないが多少の知識と経験、それに中学生には負けるが、
まだまだ時間はある。

がん!がん!がん!

2013年3月11日月曜日

震災から2年。

3月11日(月)

3月11日が今年も来た。

あのときのブログを見ると、いまでもそのときの
緊迫感が思い出される。

http://ganmo-ganmo.blogspot.jp/2011/03/blog-post_12.html

あのとき、放射能の影響で農業を続けていくことが、
ムリかもしれないと感じた。

そのときの危機感を 忘れないようにしたい。

思い返せば、

2001年の9.11のテロのときは、高校生で映画のようだと感じた。

2009年のリーマンショックに代表される金融危機のときは、
社会人になったばかりで、仕事がいつなくなるのか分からないということを、
実感をもって感じた。

2011年の東北大震災は、農業初めて1年目。
自分の命がいつ脅かされるか分からないということを感じた。

何度となく起きた、これらの出来事から、 僕は今の生活を選択してきている。

前提となっている様々なことは、当たり前ではなくて、
そして、もろくて、崩れやすい。

どうしたら、生き残れるのか。
何を選択して生きるのかを今一度考える。

震災以降、東北にも行っていない。 近いうちに行ければと思う。

がん!がん!がん!

2013年3月8日金曜日

受験間近。

3月8日(金)


受験がいよいよ間近に迫っている。

この時期になると、新たなことを習得するのではなく、
実際の試験の際に、注意すべきことをできるだけ伝えるように
心がけている。

終わったなあという感慨と、これでよかったのか?という疑問が、
ごちゃまぜになったような感情で、ここ数日は過ごしている。

すごく、当たり前のことなのだけども、やる気になっている子に
勉強を教えることは簡単である。

難しいのは、やる気になっていない子、親にむりやり塾に
連れてこられている子に、勉強を教えることである。

やる気のない子に、いかに勉強を教えるかが、
ほんとうの、塾の仕事なのかもしれない。

ところが、実際にはそれを実現する術はなく、
糠に釘、のれんに腕押しのような、他にも馬耳東風とか、
そんな手応えの子が少なからず存在している。
この受験間近の状況でも!である。

これでよかったのか?は、まさにそういった子に対して
思うことが多い(やる気があっても成績をあげられなかった子に
対しても思う)のだけども、未だに解決策は見いだせない。

なんでもそうだと思う。

政治に関しても、いかに関心のない人を巻き込むかが課題と
なっているように、興味の湧かないヒト、そのことに関心がないヒトを、
どうやって巻き込んでいくか。

お米を販売するときにも必ずぶち当たる壁ではないだろうか。

話しを聞いてくれるヒトに対してだけ、話すという、閉じられた世界で
勝負するのは、あまり進んで選択はしたくない。

そう思っている。

がん!がん!がん!

2013年2月14日木曜日

伝える力。


「インド人でもわかるようなプレゼン資料を作れ!!!」というのが、
前職のボスの口癖だった。

それくらい、ヒトに伝えるときには、相手にわかりやすくするように、
意識しなさい、という意味だったと思う。

ぼくはいまだにそんなことできていないんだけども、
それでも、最近AKBのドキュメンタリーを夢中になって見たり、
周回遅れで、AKBを追っかけているのは、伝える力が
すごく強いコンテンツのお手本だと考えるからである。

気づけば、日本を飛び越えて、台湾や香港でショップが出来て、
JKT(ジャカルタ)や、SNH(上海)などの拠点が生まれている。
アニメやマンガと違って、日本でも老若男女に愛されている。
言葉よりも早く、AKBはどんどん広がっていっているように見える。

などと、小難しいことを言わないでも、実際AKBのドキュメンタリーは、
おもしろい。なので、いま上映中のドキュメンタリー第三弾も見に行く
つもりである。

がん!がん!がん!

2013年2月2日土曜日

持続可能とは。。。。

2月1日(金)

長続きするもの。

大袈裟に言えば、一生続けられるものを大切にしていきたい。

こう思って、いまの生活を始めた。

農業、登山、ボクシング、狩猟、読書、音楽、映画、などなど、
興味のあることは尽きないけども、一生続くかは誰にもわからないことである。

だけでも、これだけは一生続けることだ!と断言出来ることが一つある。

「生きる」ことである。

生き続けること。これが一生続けることのなかで、もっとも大切で、
もっとも根底にあるものだと思う。

生きるということは、健康で丈夫な身体を維持していくことだと私は考えた。

いくらお金や時間、地位や名誉があっても、死んでしまっては終わりだ。
こう私は考えるので、第一に身体的な健康を優先している。

逆に言うと、生き続けることができれば、その他のことは枝葉末節、
とるにたらないことなのかもしれない。

だから、私のブログは一見すると農業のことについての記事が、
少ないこともあるので、不思議に思う方がいるかもしれないが、
実は、農業も行き続けるための一つのツールに過ぎないと私は考えている。

だから、登山も、ボクシングも、農業も、読書も、同じ線上で語っているのだ。

もちろん、お金をいただいている農業と、その他の趣味では、
そもそも違うのは理解しているけども、私にとっては、そのすべてが
農業につながっているし、農業もまた全てにつながっているのだ。

がん!がん!がん!